近年、IT関連企業の間でミャンマー人技術者への注目が高まっています。でも、ミャンマーって一体どんな国なのでしょうか?ミャンマーといって連想するものは何ですか?
ある世代の方々には、独立した1948年から1989年まで使われていた旧国名の「ビルマ」のほうが馴染み深いかもしれません。映画「ビルマの竪琴」も有名ですね。ミャンマーは歴史的にも、日本と深い関わりのある国なのです。
今回は、そんなミャンマーの歴史を紐解いてみます。

ミャンマーの正式名称は、ミャンマー連邦共和国。その名称の通り、共和制国家です。東南アジアのインドシナ半島に位置する多民族国家で、人口の6割はビルマ族。ほかに、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、コーカン族などの様々な民族がいる多民族国家です。

ビルマ族の起源は、中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられています。8世紀半ばの唐の時代、中国の雲南地方に勃興した王国「南詔」の支配下にあったビルマ族が、11世紀に南下して「バガン王朝」を樹立しました。そのバガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅びます。その後、シャン族やモン族による王朝など、いくつかの王朝が入れ替わったのち、アラウンパヤー王が1754年にビルマを再統一。「コンバウン王朝」の時代となりました。

19世紀、「コンバウン朝ビルマ」は、イギリス領インドに対する侵攻を発端として、産業革命によってアジアに植民地を拡げるイギリスと、3度にわたって戦争をします。これが「英緬戦争」です。これによりコンバウン朝ビルマは滅亡。イギリス領インドに併合され、その1州となってしまいました。

ビルマ人の対英独立運動は第一次世界大戦中に始まり、1930年にはラングーン大学の学生を中心としたタキン党によって、大きな運動となっていきました。さらに、1939年には、タキン・ソーがビルマ共産党を結成し、対英独立運動は勢いを増します。

その頃、日中戦争中の日本軍は、英米から中国の蒋介石政権への軍事援助(蒋援ルート)に苦慮していました。いくつかある蒋援ルートの中でも、最も輸送量が大きい「ビルマルート」の遮断は、日本軍の作戦にとって重要なものとなりました。
日本陸軍の鈴木敬司大佐は、ビルマルートを遮断するための研究をはじめ、ビルマの独立運動を陰で支えることが、援蒋ルートの遮断につながると考えました。鈴木大佐は、新聞記者に姿を変えビルマに潜伏して独立運動家と接触、後に“ビルマ建国の父”と呼ばれるアウンサンをビルマ国外に脱出させ、静岡県浜松市にある鈴木大佐の実家にかくまいました。その後、鈴木大佐は、ビルマ独立工作を目的とした特務機関「南機関」を立ち上げ、機関長となります。鈴木大佐と南機関は、アウンサンとともにビルマ独立運動家の青年30人をビルマ国外に脱出させ、寝食をともにして軍事訓練を施したのち、武器・資金を与えて武装蜂起を後押しします。この時、ビルマを脱出した独立運動家30人は、後に「30人の同志」と呼ばれ、ビルマ独立の英雄となりました。このなかに、のちにビルマで軍事政権を樹立するネ・ウィンもいました。

1941年12月8日、太平洋戦争が開戦すると、鈴木大佐とアウンサンは宣誓式を行い、ビルマ独立義勇軍(BIA)の誕生を宣言。BIAと南機関は、日本軍とともにビルマに進撃し、イギリスをビルマから駆逐しました。

ビルマには、「国家存亡の危機に、昔の王家の末裔“ボーモージョー”(雷帝)が、東方より白馬に乗りやってきて、人々を救う」という伝説がありました。鈴木大佐は、アウンサンのアイデアで、「ボーモージョー」を名乗り、白馬に乗って進軍し、ビルマの人々を熱狂させました。ビルマ人たちの歓迎ぶりに、鈴木大佐以下、南機関の日本人たちは、感激で涙が止まらなかったといいます。

鈴木大佐は、一刻も早いビルマ独立を目標とし、アウンサン達ビルマ独立運動家にも独立を約束していましたが、日本軍の中央は、日本軍の指導下に置くという方針でした。鈴木大佐は、日本軍中央と独立運動家との板挟みとなり、苦悩します。
ビルマのほぼ全土を制圧したのち、南機関は役割を終え解散。鈴木大佐は転属の命令により、日本本土に帰還しました。

その後、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とする「ビルマ国」が建国され、アウンサンは国防相に就任しました。しかし、ビルマ国は日本軍の指導下に置かれていたため、1944年のインパール作戦の失敗によって日本軍の敗色が濃厚となったのを機に、タキン・ソー率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いるPRPが合同し、「反ファシスト人民自由連盟」を結成。日本の指導下にあるビルマ国に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返りました。
連合軍がビルマ国軍を破り、ビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命。イギリスはビルマの独立を許さず、ビルマは再びイギリスの植民地となりました。アウンサンは、反英独立運動の指導者として、イギリスに自治を要求し続けました。

1947年、独立交渉が実を結び、アウンサンは、1年以内のビルマの完全独立を約束する協定をイギリスと調印しました。しかしその年の夏、ビルマ独立の日を見ることなく、アウンサンは6人の閣僚とともに暗殺されてしまいます。翌年1948年、ビルマはイギリス連邦から離脱し、「ビルマ連邦」として、完全独立を果たしました。現・ミャンマー連邦共和国政府は、その建国を、ビルマ連邦が成立したこの年・1948年としています。

独立はしたものの、中央から排除されたビルマ共産党や、ビルマ族からの独立を目指す民族が支配する地域もあり、そこに中国共産党に敗れた中国国民党軍(中華民国)、中国人民解放軍(中華人民共和国)、アメリカも関与し、国内情勢は安定しませんでした。

1962年、ネ・ウィン将軍は軍事クーデターを起こし、「ビルマ式社会主義」を掲げたビルマ社会主義計画党を結成して大統領となり、国内の安定化を進めました。この軍事政権は1988年まで続きます。
1988年、民主化運動により、ネ・ウインは退陣。軍部が再度のクーデターにより政権を掌握し、国名を「ビルマ連邦」へと改名しました。政権をとった軍部は、総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成されました。軍部は「国民統一党」を結党し、軍事政権の体制維持をはかりました。
この時、アウンサンの長女で民主化の指導者アウンサン・スーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党しましたが、選挙前の1989年、軍部によって自宅軟禁されてしまいます。以降、アウンサン・スーチーは長期軟禁と解放の繰り返しを受けます。

1989年、軍政は国名を「ミャンマー連邦」へ改称。翌年の総選挙では、その結果を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化しました。
その後も軍政は続きますが、2007年、軍出身のテイン・セインが首相に就任すると、軍政主導で政治体制の改革を開始。翌年の2008年、新憲法案についての国民投票が実施・可決されてからは、急速に民主化が進みます。

2010年には新しい国旗のデザインが発表され、新憲法に基づく総選挙が実施されました。アウンサン・スーチーは、長年にわたる軟禁を解かれ、開放されました。
翌年、テイン・セインはミャンマー大統領に就任し、アウンサン・スーチー率いる国民民主連盟は政党として再登録されました。2015年、総選挙によってアウンサンス―チーの国民民主連盟は圧勝しますが、党首のアウンサン・スーチーは、憲法の規定と軍の反対によって大統領になることができず、側近のティンチョーが大統領に就任しました。アウンサン・スーチーは国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握り、半世紀以上に及ぶ軍事政権は終結。ここに、ミャンマーの民主化が実現しました。

ビルマの独立への道のりには、日本人が深く関わっていました。
太平洋戦争終了後、元南機関長の鈴木敬司大佐(戦争終了時、予備役少将)が、ビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになった時、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何ごとか!」と、アウンサンが猛反対し、釈放されました。また、ネ・ウィンは、鈴木敬司大佐にビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」勲章を授与し、感謝を示しました。
今日の日本とミャンマーの友情には、独立を夢見て、寝食をともにして戦った、アウンサンをはじめとする独立運動家と、鈴木敬司大佐、南機関の日本人たちの“想い”が生きているのかもしれません。

アウンサンの長女、アウンサン・スーチーによって民主化が実現した新生ミャンマーは、まさに始まったばかり。民主化の実現とともに、観光客も増加し、インフラの整備に日本の企業も大きく関わり、目まぐるしいスピードで経済が大きく動き始めました。

ミャンマーは、今、世界で最も注目を浴びる国の一つです。日本企業のミャンマーへの進出も目立ちますが、優秀な若い人材が海外で学び、技術を持ち帰る機会も増えています。様々な歴史を経験し、生まれ変わった新生ミャンマーは、今後ますますの発展が予想されます。